とある論考

『翻訳』の想像力−「わたし」達の建築・都市に向けて−
1. はじめに
 今、建築について考えることは、何につながっているのだろうか。建築について語ること、考えることが、どこか自閉的で、その意義を感じられなくなっているのは、私だけだろうか。
 フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールが指摘したように「大きな物語」が終焉し、つまり社会全体で共有できる共通の理念や目標を失い、現代社会は、複数の小さな物語が乱立する状況となった、と考えることができる。(これを社会学者の宮台真司氏は「島宇宙化」と呼んだ。)そのような状況下では、公共的な議論の対象を獲得することは困難となる。それゆえ、自閉的に感じるのは必然といえるだろう。
 では、なぜその自閉的な状況では、「考えること」に意義を感じられないのか。再び、建築の問題に戻すと、それは建築について「考える」ことが、社会がどうなっていくのか、あるいはどうあるべきなのか、といった人や社会の「理想」に繋がらなくなったからではないだろうか。つまり、建築以外の島宇宙が存在していることが自明であるにも関わらず、言語的には切り離されている、という状況になっているからだ。これは、社会の「全体」が描けない以上、必然であるかのように思えるが、果たして本当にそうなのだろうか。建築家の磯崎新氏は『<建築>/建築物/アーキテクチュアまたは、あらためて「造物主義」』という論考の中で、このように建築について誰も語らなくなった状況があり、その背後には建築が何も意味しなくなり、役に立たなくなった、という共通認識があるとして、それを「建築不全症候群」と呼んだ。
 本論の関心は、「なぜ建築を考える・語ることについて、意味を感じられなくなったのか」に尽きている。そしてどうすれば、その状況を打ち破る事ができるのか、についての一つの解答を示すことが、本論の課題である。結論を先取りして述べると、建築について考えることが、「生きる」ことについて考えることに繋がらなくなった、ことがその理由であり、これは建築的な想像力と、生活のそれとの関係を再考することによって、一つの突破口が開けるのではないか、という解答を示すこととなる。また、これは建築と人・社会の関係を再考することで、社会「全体」としではない都市論のあり方について考えることにもなるだろう。それらについて考えていくために「理想」というキーワードを軸に、本論は展開されている。なぜなら、「考える」ことは、未来に向けて想像することを一つの役割としており(たとえその対象を過去に向けていたとしても)、それは「理想」について考えることだ、という認識を持っているからだ。
 以上のような関心のもと、本論は以下のように構成される。2章では、1970年代末に建築家レム・コールハースによって書かれた『錯乱のニューヨーク』を20世紀最後の都市論として位置づけ、これ以降、建築を語ることの意義が消失されていったものとして捉える。ここで問題となるのは、資本主義としての社会が、どのように個別主義を生み出し、建築の物語と、生活のそれを乖離させていったのか、ということである。3章では、多木浩二氏による著作『「もの」の詩学』を参照し、大衆消費社会における建築と「理想」の関係を考察する。これは、建築はいかにして人々に欲望されてきたのか、について考えることとなる。4章では、社会学鈴木謙介氏のいくつかの著作を参照し、現代社会における「理想」のあり方を考察する。これにより、建築は今、何を考えるべきかという手がかりを得られるだろう。5章では、それらをふまえた上で、建築はいかにして未来について語れるか、について一つの仮説を提示したい。

2.分岐点としての『錯乱のニューヨーク』
 建築家レム・コールハースによって1970年代末に書かれた「錯乱のニューヨーク」は、レム・コールハース自身が「ゴーストライター」となりマンハッタンの物語を記述し、「マンハッタニズム」という「超過密の文化」を、遡及的なマニフェスト(すでに起きた事実を再構成して語る)という形で提唱したものである。具体的には、コニーアイランド、摩天楼、ロックフェラーセンター、ダリとコルビュジェ、と時系列にマンハッタンでの建築、事件、人物を追いながら、そこに働く原理、価値(マンハッタニズム)がいかに形成され展開されてきたかを示した。
 ここでは、19世紀末からのマンハッタンの事実をつなぎあわせていくことで、いわゆる近代建築的な「正史」では語り得ないもうひとつの歴史を再構成することが試まれている。またそこにダリやコルビュジェの寓話をはさむことで、西欧的近代をマンハッタニズムが飲み込んでしまったこと、つまり近代建築という「正史」を乗り越える歴史であるということが意図されている。
 では本論の枠組みでこれらを捉え直すとどう解釈できるだろうか。この「錯乱のニューヨーク」を「大きな物語」が終焉した都市像と見ると、そこで描かれた個別化された「理想」は、またそれと建築との関係はどのようなものだろうか。
 「錯乱のニューヨーク」では、メトロポリスでの人間像について、ダウンタウン・アスレチック・クラブという建築について語りながら以下のように述べている。

 反自然派の牙城であるこのクラブのような摩天楼は、人間がまもなく二種類の種族に分かれることを予告している。ひとつはメトロポリス種族−文字通り自分を自分で作るセルフメイド存在−であり、彼らは現代性という装置の持つあらゆる可能性を利用し尽くして、きわめてユニークな完成の域に達している。それに対し、第二の種族はたんに残りの伝統的な人間種族である。(「錯乱のニューヨーク」ちくま学芸文庫、p268)


 ここで述べられているセルフメイド存在とは、スカッシュやプールやボクシングで運動をし、予防医学で男性美の探求を行い、自分自身を「自身の欲するデザインに作り換える」ものとして語られている。マンハッタニズムに生きる個々人の関心は「自己」に向かうのである。では、建築はそれにどう応えているのだろうか。「補遺 虚構としての結論」という章の「囚われの球を持つ都市」という計画案についての文章の中で、以下のように述べられている。

 メトロポリス文化の本質が変化−つまり絶え間のない運動状態−にあり、そして概念としての「都市」の本質が、誰にも読み取れる複数の不変項のつらなりにあるとするならば、このとき囚われの球を持つ都市の基盤をなす三つの公理−グリッド、ロボトミー、垂直分裂−だけがメトロポリスの領土を建築に取り返してやることができる。(前掲「錯乱のニューヨーク」、p490

 この「グリッド」は、マンハッタンの敷地を2028個のブロックに分割するものであり、その敷地内ではそれぞれ個別的な価値が追求され「都市の中の都市」を生む。つまり、メトロポリスにおいて個々人の関心が「自己」に向かう、ということを都市レベルで実践させていくためのシステムとして「グリッド」が機能しているのである。
 また「ロボトミー」とは、建築の規模がある一定の限度を超えると、内部(機能、活動)の内容が外部(形態)に比べて複雑かつ多様になるので、後者と前者を一致させることは不可能になり、それぞれ別の論理で作られるようになる、というものである。(これは後に、「S,M,L,XL」の中でビッグネスという概念に言い換えられている) 
 その「ロボトミー」によって切り分けられた建物の内部は「垂直分裂」することによって、つまり階ごとにその主題(機能や世界観)を切り分けることによって、その複雑で多様な要求を内包するような構造となっている、と言っている。
 これらは、都市レベル、あるいは単体の建築内においても、個別化が徹底される(つまり複数の主体のそれぞれの判断のもと建築の内容や価値が決定される)ことによって生まれたシステムである。
 では、このようなマンハッタニズムに生きる人間像、それらの個別化された価値観を許容するための建築・都市のシステムはわかったとして、これらはどのような欲望によって支えられているのだろうか。メトロポリスにおける欲望に関して、レム・コールハースはこう述べている。

 マンハッタンというメトロポリスはある神話的な到達点を目指す。すなわち、世界が完全に人間の手によって作り上げられ、それによって世界が絶対的に人間の欲望と一致するような点を目指すのである。
 このメトロポリスは麻薬的効果を及ぼす機械である。それ自体が逃れる手段を提供してくれぬ限り誰もそこから逃れることはできない…。こうしてそれは、浸透力を及ぼしながら、自然に取って代わり、まるで自分が自然であるかのような顔をしている。要するにありふれた、ほとんど誰の目にもとまらない、そして当然ながら言葉になり難い存在になってしまっている。(前掲「錯乱のニューヨーク」、p486)


 世界と人間の欲望が一致するというような無限遠の目標へと向かって運動が続けられていく。それは、「自己変革」という欲望が常に生み出されている状態だろう。つまり、ここでは、メトロポリスの資本主義システムのことが語られているのである。思想家の柄谷行人は「隠喩としての建築」の中で資本主義の動力について以下のように述べている。

 資本主義の動力は、むしろ消費を断念しても、交換の権利、すなわち貨幣を獲得しようとする欲動なのである。くりかえしていえが、それが貨幣のフェティシズムである。…注意すべきことは、一般に蓄積ということが貨幣フェティシズムによって生じるということである、歴史的に、蓄積は、貨幣の蓄積としてのみはじまるのだ。(中略)蓄積は必要や欲望のもとづくどころか、それらにまったく反した、一種の倒錯(フェティシズム)に根ざしている。蓄積の欲動、そして資本の運動こそ、逆に、必要以上の必要、過剰な欲望をわれわれに換気するのである。(「隠喩としての建築」岩波書店、p218)


 この「貨幣フェティシズム」によって、際限なく欲望が再生産され、資本主義の運動が持続し、そのシステムによってメトロポリスもまたその「自己変革」の運動を続けていくのである。つまり、都市は資本主義の論理により、自動的にその変化が持続していくだけのものなった、ということである。
 このような状況の中で、レム・コールハースは前述した「グリッド、ロボトミー、垂直分裂」だけがメトロポリスの領土を建築に取り返すことができる(建築が扱える領域である)、と主張したのである。
 ここまでで、「錯乱のニューヨーク」で語られていた、メトロポリスでの人間像と、それに対する建築の反応、またそれを支える欲望、を考察してきた。これらは、未だに、現在のグローバル化した都市において有効な枠組みであると考えられる。しかし、一方で、その有効性を現代的に再検証する必要がある。なぜなら、この「錯乱のニューヨーク」以降の、建築は自閉した議論しか生産することができなくなった、というのが本論の問題意識であり、今どのように都市あるいは社会を考えればいいのか、そのための枠組みが必要であるからだ。では、なぜそのように自閉してしまったのか。資本主義が徹底され、社会の全体性が崩壊する。そして世界の複雑性が縮減されなくなった社会において、建築は「ロボトミー」の原理により、純粋に「形態」の問題か、「実用」の問題に引き裂かれ、前者は主に「建築家」の問題として、後者は主に「ビジネス」の問題と乖離していく。これによって建築を語ることは、人や社会を語ることにつながらなくなり、建築を考えることは、「形態」の問題以上のものを語りえなくなったのである。
 では、この状況下でどのように建築を考えていけばいいのか。ここではやはり「グリッド、ロボトミー、垂直分裂」がヒントになるだろう。これらはどれも基本的に、社会全体で共有できる「理想」を消失することで、無数に現れる個別化された小さな「理想」を建築・都市が内包することとなり、全体としてはその複雑な内容に答えることができないので、全体の形式と、そこに含まれる内容は乖離していく、という論理でできている。しかし、なぜ、この小さな「理想」への眼差しが捨てられなければいけなかったのか。もはや社会全体の「理想」を想定することはできないが、ある個別の「理想」に対しては応えることができるのではないだろうか。そうしたことが、建築を考えることと、「生きる」ことを繋げていくのではないか、と考えている。また、そこでの個別的な「自己」と「他者」の関係を考えることで、新しい都市像にもつながるだろう。
そのことについて考えていくために、手がかかりとなる二つの作業を行う必要がある。一つ目に、現代では社会全体の「理想」が消失したとして、それが存在したと「思われて」いたころ、建築はどのように機能したのか。二つ目に、現代社会に生きる人々は、そのような社会の複雑性に直面しながらどのように理想を持ち(あるいは持たず)、現実と理想の関係を作っているのか。次節では、この一つ目の問題に対し、多木浩二氏の論考を参照することで見解を述べていきたい。

3.大衆消費社会の「もの」と「理想」の関係
 1980年代前半に出版された、多木浩二氏著の『「もの」の詩学』は、ヨーロッパにおける19世紀初頭までの家具の変容の歴史、19世紀中期までの博覧会・美術館とブルジョワジーイデオロギーの関係、19世紀末にバイエルン国王のルードヴィッヒ2世が建てた城、20世紀初頭にナチスドイツのヒトラーによって計画された都市、を扱いながら建築や家具など「もの」に潜在している社会の無意識や政治性を論じたものである。これらを、人々が抱く「理想」がどのように「もの」に現れていたのか、として捉え直してみたい。
 多木氏は、ルードヴィヒ2世について扱った章の中で、近代社会における「もの」のキッチュ化について述べながら、以下のように述べている。

 いいかえれば美的記号としての「もの」が、あらかじめ存在する社会的−政治的な諸関係を象徴するというより、社会性そのものを構成する主要な要素になってきたからである。王であったルードヴィヒはもちろんこうした大量の商品の世界にまきこまれたのではないが、かれの「もの」のつくり方は、なぜかやがて近代社会の大衆文化につきまとう現象(キッチュ)の美的性質をそなえていたのである。(『「もの」の詩学岩波現代文庫、p168)


 ここでは、階層社会を上から下へと「もの」の文化が移動することによって生じる「キッチュ」さ、という点で、消費社会における大衆文化のそれと、19世紀末の最上流階級にいたルードヴィヒ2世に類似的な関係があり、後者を研究することは前者を考察する上でのモデルとなる、と言っているのである。また、続けてこうも書かれている。

 文明化とは欲望の浮上とその記号的(儀礼的)統御のバランスが漸進的に世俗化に向かう移動をさしていたわけである。だがエリアスの扱った文明化はあらかじめ特権を有している階層での変化であった。キッチュ現象はこの特権的階層と非特権的階層との関係が変り、後者が以前は自分のものではなかった文化を我有化していく過程があらわれた結果なのである。(前掲『「もの」の詩学』、p169)


 つまり、この「キッチュ」は、「手に入らなかったもの」への無意識的な欲望から生じている、ということである。例えば、ルードヴィヒ2世は、「王」という身分であったが、実質的には資本主義の台頭によってその存在が脅かされる時代にあった。それゆえに、「『王』の身分への執着が、現実の断念と裏腹に強まってきたのだろう」と仮説をたてることができるのである。では、これは「もの」にどう現れているのか。

 もちろん、ルードヴィヒがバイエルンに城をつぎつぎに建てているとき、このような構図、このような帝国幻想を意識したことすらない。かれにとって、目標は「王」の身分、「王」の威信であった。しかしそのための城は、ある意味で安っぽいロマンスのつみ重ねであった。しかも素材は歴史的過去にあった。城は、このような夢の作業から、必然的に、ヨーロッパの権力の歴史の幻想的な見取図を潜在化させはじめる。ゴーロ・マンがドイツの中世の政治の実相をかたちづくったという「神聖ローマ帝国」の幻想は、ルードヴィヒが無意識に描いていく構図のなかでは、ローマに起源をもつヨーロッパ帝国という幻想になっていたのである。(前掲『「もの」の詩学』、p197)


 ルードヴィヒが建てた城には、ロマネスク様式、ゴシック様式ビザンチン教会と、不統一的な多くの様式が現れていた。加えて、中国の宮殿、オリエントの王座、ヴェルサイユなど地理的、歴史的にも広がりのるイメージが現れていた。これらは、象徴的に表現された「権力」であり、その源をたどっていくと、「ヨーロッパ帝国」という幻想が浮かび上がってくる、とここでは述べられている。
 ここで注目すべきは、ルードヴィヒが「手に入れることができなかった」「(実質的な)王」としての存在への憧憬が、無意識的に歴史物語を経由しながらも、建築のイメージや様式に現れている、という点である。つまりここでは「理想」が「虚構」(なぜならそれは達成されることはないからである。)として建築に投影されているのである。建築は、そのような「理想」への欲望を現実に(虚構化されたものだとしても)具象化する役割を担っていたのだ。そしてそこに現れる「理想」は、社会の劇的な変化により、「身分」や「階級」といった、「手に入れることのできなかった(がしかし、虚構として獲得できる)権力」への欲望として現れた、ということであった。つまりここでは、「理想」に支えられた「物語(=幻想、虚構)」への欲望が、建築の様式(=形態)やイメージと結びついていた。だからこそ、建築の「形態」や「イメージ」について語ることによって、「物語」や「理想」について語ることが可能だったのである。 
 これは、章の冒頭でも述べたが、ルードヴィヒの場合だけではなく、大衆消費社会においても同様のことが言えるだろう。例えば、社会学者の鈴木謙介氏は著書「わたしたち消費」の中でこう述べている。

 「理想」としてのマイホームが定人びとの間に定着するのは、高度経済成長期の頃です。この時期に家庭に普及したテレビは、アメリカのホームドラマを通じて、パパ・ママ・ボクの核家族を、ひとつの「理想像」として描いていました。それは同時に、高度成長に支えられた「我が家」と「マイカー」の購入によって可能になるような、実現可能生を持った理想でもありました。(『わたしたち消費』幻冬舎新書、p76)


 ここでは、社会学大澤真幸氏の「理想」「虚構」への言及を参照し、「理想」を「未来において現実に着地することが予期されているような可能世界」、「虚構」を「現実への着地ということについてさしあたって無関連でありうる可能世界」とされている。 
 ルードヴィヒ2世についても、高度成長期におけるマイホームにしても、ある手に入れたい「理想像」があり、そこでは人物、環境、「もの」がセットになって、その像を形づくっている。そしてその欲望の仕組みとしては、「理想」(「王という身分、幸せな生活など」への欲望が、社会で共有された「物語(=虚構)」(こういう場所に住めば「理想」に近づけるよ、というような幻想)を介して、建築などの「もの」へ向かった、ということだろう。
 今日では、そのような社会全体で共有される「物語」は存在しない。それは、人々が建築に「理想」を求める、ということが期待できなくなることを意味している。なぜなら、上述したように、その欲望は「物語」を介したものだったのだから。
 では今、建築と人の関係を再考する時、社会において「理想」がどうなっているのか、あるいはそれを信じさせる「物語」がどうなっているのかを考える必要がある。よって次節では、鈴木謙介氏の論考を参照することで、それについて考察する。

4.「理想」の現在的あり方
 前章では、建築や「もの」に、どういう仕組みで人々の「理想」が投影され欲望されてきたか、ということを多木浩二氏の論考を参照することで考察してきた。これは、19世紀末バイエルンの王という個人を対象に分析したものだったが、マイホーム幻想など大衆消費社会における消費も同じ構造で語れる、ということを先述した。しかし、これらのような解釈は、社会全体で共有される「物語」があるからこそ可能になる。その「物語」が個別的になっていくと、事象間の関係、例えば建築の様式と階級といったような関係が読めなくなってしまうからだ。
 鈴木謙介氏は、『わたしたち消費』の中で、大衆消費時代での消費を「みんな」型の消費とし、また消費の動機づけをしていた「物語」が細分化していくことで消費における選択の基準が個人の感性へと移行し、「みんな」から「わたし」型の消費へと移行する、と述べている。この「みんな」型の消費とは、高度経済成長期のマイホーム幻想に見られるように「みんなが目指すべき姿」を達成しようとする消費のあり方であり、これは「大きな物語」によって支えられていた。そうした「みんな」という基準が失われた後の、「わたし」型の消費として、「わたしたち消費」と「断定系消費」が挙げられている。前者は、「私だけが知っている」出来事が、集合的な行動により「私たちだけが知っている」出来事へと変換されることによって起きるものだとされている。それらを動機づけている「理想像」に関しては、共同体と共同性の差異について言及しながらこう述べられている。

 社会学の知見は、私たちの考える「人に優しい共同体」が、近代になって人びとが共同体から解き放たれると共に現れた「理想像」に過ぎないことを教えます。つまり、私たちは、共同体が失われたと思えば思うほど、どこかに理想の共同体があるはずだ、という観念にとらわれるようになったのです。(中略)私たちが、「わたしたち」というつながりを求めるという現象に関していえば、そこで求められているのは、参加者にとって理想の共同体のように感じられるつながり、すなわち「共同性」と呼ぶべきものだということになるでしょう。(前掲『わたしたち消費』、p106-107)


 これは、「理想」としての「あるはずのつながり」を求め、消費によってそのつながりが獲得されるようなあり方のこととして考えることができる。(これは、「iPhone」が発売された当時、商品の発売という「イベント」に参加することが、ファンの間でのコミュニケーションのネタとなっていたことが、例として挙げられている。)
 一方、「断定系消費」に関しては

「みんな」基準が失われて、どれでも好きなモノを選んでよいという状況にとどまっている人たちに、「これがわたしの欲しいモノだ」と思わせてくれるようなメッセージやメカニズムを与えることで、その決めつけに基づく消費を誘発すうような事態を指します。(中略)これらは、実際に序列があるかどうかは別にして、そのような「絶対的な序列がある」ということを信じ込むことから生まれます。「このように生きるといい人生が生まれます」「本来日本人はこんな美徳を持っていたはずです」といった、「絶対的な判断基準」を提供しているのも、こうしたブーム、商品の特徴です。(前掲『わたしたち消費』、p108-109)


とされている。「わたしたち消費」にしろ「断定系消費」にしろ、これら二つの消費のあり方は、どちらも消費における選択の基準が個人に委ねられた時、「理想」としての「あるはずのもの」を求めているという点で共通している。
 このような無根拠で実現可能性が低い、遠い「理想」へと人々が向かっていく状態は、鈴木氏の他の著作である『カーニヴァル化する社会』の中で詳しく論じられている。そこでは、若者の雇用問題(フリーター、非正規雇用)を例に挙げながら、以下のように述べられている。

 冷静になってよく考えてみれば、「やりたいこと」も「働くべき理由」も、内発的には存在しない。だからこそ、客観的には実現不可能な遠い目標を設定し、そうした「漠然としたやりたいこと」へ向けて、テンションを高めていかなければならないのである。(『カーニヴァル化する社会講談社現代新書、p53)


 また、このように遠い目標へ向かい、その遠さや叶わなさに冷めてしまうも、再びテンションを高めていくというような、目標へ向かっていく時の躁状態と、冷静な時の鬱状態が分断される状態を「分断される自己」というモデルで説明されている。
 ここでの若者の雇用問題における「やりたいこと」や、前述した「私たち消費」における「わたしたちだけ」知っているモノによるコミュニケーション、「断定系消費」における「わたし」が欲しいモノ、などは「自分とは何か」という問題に直面した時に、理想としての「自分にあるはずのもの」を求める、というかたちで表れている。しかし、それは内発的には存在せず無根拠な「理想」であり、叶わない「現実」との間で分断されていく。
 では、その時「理想」はどのように生成されるのか。これについて鈴木氏は、データベース(情報環境)によって自身が欲望するものをアルゴリズム的に提出してもらい、その結果に人間的な理由を見いだすことによって、その「理想」の材料にするという、情報環境と自己の往復運動によって生まれている、と述べている。これは先ほどのモノの消費という点で考えれば、所与の情報(商品あるいはそれに付随する「このように生きるといい人生が生きられます」というような物語)を経由することで、「わたし」はこれが欲しかったんだというと思い込むようなあり方であろう。このように、情報環境と自己の往復によって、絶えず「自分にあるはずのもの」という「理想」が生成されている、と考えることができる。
 このように「理想」が、情報環境と自己を往復することによって生成されている、と考えれば、情報環境というインフラを介して人々は繋がってはいるものの、その自己はそれぞれ異なる夢を見ている状態といえよう。しかし、その自己の間は閉じられたままなのだろうか。「夢」の交換はありえないのだろうか。また、このような「理想」のあり方の変化に、建築の思考は対応しているのだろうか。
 ここまでで、現代社会において人々が持つ「理想」のあり方についての一つの見方を得ることができた。ではこの時、建築はいかにその役割を考えていけばいいのか。次章では、そのための仮説を提示したい。

5.「翻訳」の想像力
 現代社会では、社会的に共有される「大きな物語」という共通の「理想」や目標が存在しない。これは建築を作るだけで、自動的に大きな意味や役割が獲得される、といったことが不可能になったことを意味している。もちろん、建築は、生きていく上に必要不可欠なものであるといえる。しかし建築が「必要」である、ということと、建築が「欲望」されていることは違う。なぜなら、現代社会は(特に日本においては)、モノの豊かさにあふれ、その「必要」さは既に「自然」なものとして受け入れられているからだ。(もちろんこれはすべての国や地域にあてはまるとはいえない。)しかし、建築家達は、その「自然」にどう距離をとるにせよ、そこから飛躍することで「理想」を作り出すことが求められる。
 では、その「理想」はどのようなものであるかというと、データベース(これは情報環境、あるいは市場と言い換えてもよいだろう)と自己の往復によって生成された、「自分にあるはずのもの」という自己物語として現れている。そしてそれは、その無根拠さゆえに(自分でそう思い込んでいる状態であるため)、叶わない「現実」との間で自己が分断される、というモデルで理解することができる。 
 このような考えを持ったとき、建築はどのような役割を構築できるだろうか。それに答えるためには、その状況に対する本論の立場を示す必要があるだろう。
 そこで、もう一度、1章の最後の議論に戻ってみよう。「錯乱のニューヨーク」では、「グリッド」によって分割された個々のエリアに、それぞれの主体が「自己」の価値判断に即して、個別に建築が作られていくような都市像が示されていた。そこで建築(家)に残された領域としては、「ロボトミー」と「垂直分裂」という、全体の外的な形態をいかに作るか、と内部の複雑な要求をどう処理するのか、という問題のみであると答えられていた。これは、都市全体にしろ、一つの建築にしろ、個別の作られ方と全体の作られ方が乖離していくあり方である、というものであった。それは自閉的な「自己」と、それが集合することを可能にする全体の仕組み、によって成り立っているということである。
 では、それらに対し、本論はどのような立場をとるのか。それは、端的に、次の三つである。一つ目は、「自分にあるはずのもの」という無根拠ではあるが、生きていくための「理想」に応えること、これはその「理想」の価値が「自己」に向かうものである必要がある。二つ目は、そのような「自己」が、自閉的なシステムで再生産されるのではなく、他者との関係の変化によって書き換えられていくような枠組みを作ることである。三つ目は、「理想」と「現実」に分断された現代の自己像に対して、その「分断」の問題に応えることである。
 これらは、絶えず価値の参照が「自己」へ向かうような個別主義的な都市に生きながらも、そこでいかに人は集合して住むのか、ということに対する私の解答である。そして、それは自己物語としての「理想」を夢見ながら、あるいは「現実」を生きながらも、他者との関係によって、お互いの「理想」や「現実」を書き換え、価値を交換していくような人間像・社会像である。
 ここで問題になるのは、この「自己」とは誰なのかということである。建築家なのか、クライアントなのか、そこに訪れる人なのか、建築主なのか、またその持ち主も変わる可能性もある。しかし、そのような、過去や未来を含め想定できない「全体」を夢想することが一つの隘路ではないか。建築家によって「全体」は「計画」できない。しかし重要なのは、その建築家も「全体」の一部である、ということだ。建築を設計する時、その場合に応じて、個別の「自己」が設定される必要があるだろう。そして建築家を含めた「自己」が、現れては消えていくという、過去・未来を含めた複数の他者による流れの一部に組み込まれる、という都市像が必要なのではないだろうか。
 では、先述した三つの対応に、どのように建築的な思考を巡らせることができるのか、その指針を示したい。
 一つ目の、「自己」に向かう「理想」に関しては、建築論としての物語が「何」に向けられたものなのかを示す必要がある、と考えている。これは、建築の形態を生み出すための物語ではなく、その「何」を媒介にし、生活像を伴った物語として表現することができるのではないか、というものである。つまり、2章で扱ったような大衆消費社会における「みんな」の物語ではなく、「わたし」の物語として、である。これについて考えていくための手がかりとして、建築家ユニット・アトリエワンが提唱する建築論「ビヘイビオロロジー」が挙げられる。アトリエワンの塚本由晴氏は雑誌「10+1no.49」のインタビューの中で、ビヘイビオロロジーについてこう述べている。

 例えば、光、風、雨といった建築の周囲のある物理的な自然要素のふるまいをコントロールするために、屋根勾配や窓庇や雨樋といった細部が生まれる。また、建物が似たものの反復のなかに置かれたときには、必ず周りとの同一性と差異が浮かび上がり、そこにふるまいと呼べるものが出てくる。これに、人のふるまいを加えた三つの次元のふるまいの取り扱いから、建築を捉え直し、それらを関係づけていく。そういう想像力が「ビヘイビオロロジー」ですね。(「10+1no.49」INAX出版、p87-88)


つまり人や自然現象や建物などを、「ふるまい」という視点で捉え直すことで、それを媒介に、人々の生活の物語と建築のそれを結びつけているのである。これは、個別的な「理想」に応えながら、つまり「自己」に向かいながらも、反復の中や複数の他者の中に組み込まれていく、ということを可能にするものとして考えることができる。
 次に、残りの二つに関しては、建築の持つ「動かないこと」と「そこにあり続けること」といった性質が有効なのではないかと考えている。建築は、不動性や、少なくとも数十年は建ち続けるという不変性を持っている。これは、自己以外の他者に出会わざるを得ない、という状況と、自己の状態に関わらず変わらないものがある、という状況を生む。上述した二つ目の対応である、「自己」の自閉性に関しては、設計者として、あるいは生活者として、自己に閉鎖した物語を持ち込もうとも、その場所には周辺を含め、他者の物語が変わらず存在している。こういったことに目を向けることが、自身の閉鎖的な物語を、お互いに書き換えていく可能性があるのではないだろか。次に、三つ目の、「理想」と「現実」の分断に関しては、建築は、「理想」としての自己物語を表現すると同時に、生活を支える物理的なものでもある。それは、そこに生きる人の、物語へ向かう態度の差異(躁鬱状態)に関わらず、変わらず一方で「理想」として、一方で「現実」として現れる。このような「変わらずある」という性質が、その分断されたものをつないでいく契機になるのではないだろうか。
 もちろん、このような建築の不動性や不変性は、「当たり前」のことであるかもしれない。しかし、こういった当たり前のことを、建築の「物語」として差し出すこと、また、自己物語を生きながらもそれは絶えず「現実」であることが、現実空間や情報空間を含め様々な「物語」で溢れた現代社会において、建築の役割と強みを示していくことにつながるのではないだろうか。
 ここまでで、本論の結論はすべて述べたこととなる。しかし、上述したような建築的思考は、建築の長い歴史の中で、すべて語られてきたような内容である。問題なのは、それをいかに現代の生に結びつけるか、といった言説のあり方だろう。建築が培ってきた知性に敬意を払いながら、それが今生きることにどう接続するのか、という建築の言葉と、生きる言葉を「翻訳」していくという作業が今必要なのではないだろうか。そうすることで、閉鎖的な自己(あるいは島宇宙)の間を言葉が流通し、人はどう生きるべきか、そこで建築はどうあるべきか、といった次なる想像力が生まれていくのではないか、と考えている。
 

参考文献
ジャン=フランソワ・リオタール『ポストモダンの条件』(水声社 1986年)
宮台真司『制服少女達の選択』(朝日文庫 2006年)
磯崎新「<建築>/建築物/アーキテクチュアまたは、あらためて「造物主義」」『ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり』(鹿島出版会 2010年)
レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』(ちくま学芸文庫 1999年)
Rem Koolhaus and Bruce Mau『S,M,L,XL』(THE MONACELL1 PRESS 1995)
柄谷行人『定本 柄谷行人集 第2巻 隠喩としての建築』(岩波書店 2004年)
多木浩二『「もの」の詩学』(岩波現代文庫 2006年)
鈴木謙介『わたしたち消費』(幻冬舎新書 2007年)
鈴木謙介カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書 2005年)
塚本由晴 南後由和「いまなぜ、「ビへイビオロロジー(ふるまい学)」なのですか」『10+1 no.49』(INAX出版 2007)