建築が叶える「理想」についてのメモ

今日こんな仮説をたててみた。
『建築が今生きられたものとして語られにくいのは、何を欲望してるか、とかどんな理想を持っているかとかが、情報化されたものの中にあるからではないか(情報環境に親和性の高い人は)。今までのように現実空間の建築を見るとともに、流通してる(無意識的に)理想化された空間(情報空間・アニメなど表象含め)について考える必要があるのでは、と』
というのも、建築(家)が現代社会の中で、一つの無力感を感じていたり抵抗しようとしているのは
社会や都市を「作れない」のではなく「語れない」からではないのかと、考えていたからだ。
ではなぜ「語れないのか」。それは建築を語ることが、人や社会について語ることに直結しなくなったことにつきるのではないだろうか。
ではなぜ、直結しなくなったのか。それに対する答えとしての仮説が先に述べたことである。

建築は実質的な環境を構築することができるが、単純に今「こうして使える」以上のことを語る時、それは一つの「理想」やフィクションが提出される必要がある。それはある種、今無意識的に欲望されているもの、とどう距離をとるか、近づけるか、という操作になるだろう。しかし現代の問題は
その「理想」がどこに属してるのか、あるいはそのあり方も、人によって違うし(社会全体で共同性が発揮されていないため)
何を「通して」理想を夢みているのかが理解できないからだ。(データベース化された情報空間or現実空間)

例えば
多木浩二さんが語ったように、いわゆるポストモダン社会以前なら、権力と大衆的欲望の関係を「もの」を通して見ることができた。それは理想が権力(という大きな物語?)に向かっていたからだ。

しかしある時代以降、ものの消費を通して、大きな理想に到達しようということは不可能になり、個人の好きなものに依存していく。
しかし、その「好きな」がどのようにして、なぜ、どこで生まれているのか、への思考を放棄するのではなく
困難であるからこそ再考すべきではないかと考えている。
今、人々が夢みる「理想」や「欲望」は、何を通して夢見られているのか。
それと従来的「欲望」のフィルターの回路がどう違い、どう併存しているのか。

このことを考えてみる必要がある。
そのためのヒントとして
多木浩二氏著の「ものの詩学」「生きられた家」
社会学鈴木謙介氏著の、現代社会における理想と消費の関係を語った、「わたしたち消費」あたりから再読してみようかと思う。