出会ったのは誰か。

11/19に「個室都市 東京」を体験してきたのだが
ツアーを終えた後、これはすごい!という思いと、内容を即座には消化しきれない感覚が残ったので
少し整理し、感想として私個人の解釈を述べたいと思う。


以下、ネタバレを含むので、これから作品を体験しようかと思う方は見ないでください。東京終了後、ウィーン、京都でも公開予定らしいのでそちらもおきをつけください。

この作品は演出家の高山明氏が率いるユニットPort Bによる「演劇」作品である。
池袋で行われている「第二回フェスティバル/トーキョー09秋」の中の一プログラムであり、池袋西口公園内で実施されている。
(詳細は、公式HPにて記されている。 http://festival-tokyo.jp/program/portb/ )


ここで内容を要約すると、西口公園に仮設建築が設置されており
その中は漫画喫茶やインターネットカフェを模した構成、つまり、カウンター、DVDの陳列棚、個室ブース群によって成り立っている。


訪れた人々は、客として体験コースを選ばされる。それは「一時間パック」など、これも漫画喫茶・インターネットカフェのパロディとなっているのだが
ここにオプションツアーが設定されており、それが店員によって推奨される。(後述するが、このツアーが全体の作品性を最も良く表しているのである)


まずこの仮設建築内での人々の体験を記すと、DVDの陳列棚から一回につき5枚を上限にして個室ブースに持っていき、それを鑑賞するという行為を時間内に繰り返す。
個室ブース内は、ディスプレイ、DVDプレーヤー、クッション、コートかけなど、漫画喫茶・インターネットカフェのブース内そのものである。
DVDのパッケージには、ある一人の顔(若者、老人、主婦、学生、ホームレスなど様々な年齢、属性の人々によるDVDが棚に用意されている)が表紙として写っていて
DVDの内容はその人物が、ある若い女性(顔は映されず声のみ)のインタビュアーによっていくつかの質問をされるものとなっている。
その質問内容は「ほしいものは何ですか?」「マクドナルドにはよく行きますか?」「どこに住みたいですか?」「友達はいますか?」「日本についてどう思いますか?」「難民についてどう思いますか?」「天皇に会ったことがありますか?」「日本は労働力を受け入れるべきだと思いますか?」「生きがいは何ですか?」…などであり
最後の質問として「あなたは一体誰ですか?」と投げかけられ、インタビュイーがそれに答え一枚のDVDが終了する。


ここでは、はじめは何でもない質問からはじまり、次第にナショナリズムや政治的な問題、自我の問題へと拡張されていき
最後の質問では、そのような社会的な存在であり、自我を持つ、「私」というものがいかに意識されず不明確なものであるかを、問いとして投げかけられている。


興味深いところは、このDVDを5枚を上限に持ち込み鑑賞するという一連の行為を繰り返すシステムである。
一回目に持ち込んだDVDを見終わった後、鑑賞者はその内容を知る、つまり「私とは何か」という問いがなされていることを知る。
そして二回目に個室ブースにDVDを持ち込む際には、それを知った上で、表紙に写る様々な属性の人々(データベース化された他者)の中から興味を惹かれる人のDVDを選び再び持ち込み鑑賞する。


つまり、ここでは、DVD内のインタビューを鑑賞しているつもりが、気づかぬうちに自分自身への問いに変わり
その問いの答えを与えてくれるような人々のDVDを選択・鑑賞し、また「問われ」、選択し、鑑賞する…というサイクルを促進する構造が
このDVDの内容と、それを個室で鑑賞するという空間によるシステムに組み込まれている、と解釈することができる。


私は、ここに肯定的に評価できる二つの可能性を感じた。
一つ目は、これは自分が他者を鑑賞しているつもりが、それと同時に無意識的に「自分」に直面する、という再帰的な構造となっているのだが
データベースとしての棚→個室→データベース→…の往復運動が(それは欲望(不安と安心の再帰性)によってドライブされる)
無意識的に促進される点において、「アーキテクチャ的アート」としての可能性を感じたという点。
もう一つは、これらは東京という都市を、「私」を消費する都市として物語化し、それらを漫画喫茶・インターネットカフェなどの空間形式に表象させており
この物語化の手法には社会分析的な批評眼を感じた。そしてこの物語には、都市での新しい生活ヴィジョンを指し示す可能性を感じたという点、である。


つまり(拡大解釈ではあるが)、私達は現在の都市の中でモノや情報を消費しているが、それは絶えず「私」という存在に帰り、個室という空間の中で生きることとなる。
そしてそれは個人の内面という問題ではなく、構造的に都市のシステムが抱えている問題である、と。
そんな中で、私達はいかに都市を生きたらよいのか、ということを考えされられる作品であった。


しかし、作品はこれでは終わらない。
はじめに記述したが、この「演劇作品」ではオプションツアーが推奨されている。
そのツアーの内容は「避難訓練」として
この個室内から外に出て、すぐ脇に設置された「ドア」をくぐり、東京芸術劇場、地下道を経て、地上へと戻り、マクドナルド横の雑居ビル内3Fのある部屋まで、渡された地図を見ながら進む、というものである。



この最終ゴールである部屋は、内部が、暗いBAR風の室、マジックミラーで隔たれたマクドナルド風の室、個室ブースによって構成されており
BARのカウンターに店員(案内人)が、マクドナルド風の室内には何人かの人がぼーっと「一人」で時を過ごしている。
BAR内にはいくつかのテレビモニターがあって、そこにはマクドナルド風の室内にいる人々と同一人物が先ほど観たDVDと同じ内容のインタビューを受けている動画が流され続けている。


ここを訪れると、その店員から、テレビモニターの中から一人を選びその人と個室ブースで話をするという内容が説明される。
一人を指名すると、マクドナルドから個室ブースにその人が移動し、ツアー体験者はそこに誘導される。
個室ブースでは、DVDと同じ内容の質問が、その指名した人からなされ、その後数分雑談する。
その後、個室ブース裏の通路に誘導され、そこを進んでいくと「ドア」がある。
それを開いて入った先は、暗くて小さな個室であり、街路に面した一面だけがガラスとなっている。
それはツアーのはじめにくぐった「ドア」が見える方向であり
しばらくするとアナウンスが流れ「私達が出会った記念として、はじめにくぐったドアが点灯します」とし、このツアーは終了する。

おもしろいのは、①避難訓練とされたこの一連の経路のゴールが出会いカフェ風のBAR形式をとっていること②そこで待機している人々はマクドナルド風の室内で、互いに会話を交わさないこと③個室ブースでは、指名した人からDVDと同じ自分についての質問をされること④最終到達地が、外が見える「個室」であったこと、である。


ここで示される内容は、「私」の存在に疑問を感じ、他者を鑑賞しても、その答えが見つからない。そのような「危機」に対して「避難経路」が確保されている。
そしてその危機を救ってくれるのは、他者との接触を形式的に可能にする第三者的サービスであるが
そこでのプレイヤーもまた「私」を問われる存在であり、絶対的な承認を与えてくれる他者ではない。
そのような絶対性を欠いた中で、やっと「私」を「他者」によって問われるが、それは答えではなく問いのままである。
そして最後は、その自己完結的な個室から抜け出し、外部を獲得するが、そこもまた個室でしかない。


つまり、私達の生きている社会は、無限循環的に「私」を追い求め、個室に閉じこもり、他者や外部と接触するのも形式的なサービスであり個室内でしかない
そんなアイロニカルなメッセージとして、これを解釈することができる。


ここでの物語化や、その表象の構造は、前半で述べた「DVD鑑賞+個室ブース」と同じであるが
体験として、外部の都市や他者との接触が組み込まれている点で、より強烈にその物語と現実の都市生活が関係していることを感じさせてくれる。


この二段階の、体験システムによって
物語と現実を密接にリンクさせ、体験させる。まさに観客参加型演劇である。
演者/観客という演劇よりかはその対立図式が解体される「祭り」に近いものかもしれない。
(それは、アーキテクチャ的デザインであり、空間デザイナー李明喜さんの言う後期デザインに近いものである。)


その手法は非常に鮮やかであり、衝撃的であった。
しかし、そのような物語の中、私達はいかに未来を考え、生きていけばいいのだろうか。


この作品には続きがあるのである。それは最後のゴールであるBARを抜けたその先である。
私達は、「私」を問い、物語を生きるが、しかしそれは「物語」なのである。
その「個室」は、誰が作ったのか。
この物語で描かれる再帰的な自己言及を、あえて選択し実践することに
その隘路を超えていくための、ヒントがあるように思える。